うたかたのシナリオ
冬日影
登場人物
井上 洋(36) 東海通信株式会社開発技術主任
井上 裕美(36) 洋の妻
堀江 勇(48) 東海通信株式会社技術室長
前田 藤吉(60) 東海通信株式会社社長
山川 豊(53) 帝国通信株式会社技術重役
act1 東洋通信開発室
広い工場をガラスで仕切った一角。
10人ほどの社員が試作制御回路のボードを、産業機械に組み込んでいる。
揃いの作業服にネクタイ。
時々手直しを指示する、井上洋(36)。
井上の指示にてきぱき従う、活気ある技術集団。
若い技術者が「主任」と井上に声をかける。
促されてガラス窓を見る井上。
室長の堀江(48)が井上を手招きしている。
act2 東洋通信洗面所
鏡に映る堀江と井上。
堀江はネクタイを直している。
堀江「何だろうなあ、社長。井上君、心当たり有るか」
井上「いえ」
堀江「機嫌いい声だったから、悪い話ではないとおもうけど」
井上、なにか思い当たるらしく、不安な表情になる。
堀江「ん?」
井上「いえ」
堀江「今のプロジェクトの事だったら、井上君から報告してくれるか」
井上「ええ」
act3 東洋通信社長室
応接セットに対峙する前田社長(60)と、堀江、井上。
煙草をとる前田にライターを差し出す堀江。
前田、うまそうに紫煙をなびかせて、
前田「順調のようだね」
堀江「はい、試作機への組み込みが完了し、バグを洗っている段階でして」
堀江、井上に目顔で説明を促す。
前田「いや、今日はその件はいい、他でもないが、株式上場の計画は承知しているよね」
堀江「そりゃ、もちろん」
前田「これを機会に体制固めをやる。つまり組織改正だ」
堀江、来たという期待感で「はい」
前田「君らにとってはいい話だ」
堀江、もみ手。
井上は不安な表情。
前田「室長は、技術常務で、」
堀江、感動で「社長!」
前田「主任は、後釜の室長だ」
堀江「ありがとうございます」
井上は、うつむいてしまう。
堀江はそんな井上に気づかず、上気している。
前田「どうした、主任」
堀江、ようやく気づき、
堀江「どうした、井上」
井上の表情がだんだん苦渋に満ちてくる。
前田「ん?」
井上「あのーーー」
前田「どうした」
井上「せっかくですが」
前田「なんだ、室長では不満か」
井上「いえ、決して、ただ、私は今の立場で十分かと」
堀江「おまえなあ」
前田、堀江を制して、井上を見る。
井上、辞退の言葉を捜す。
井上「私には、やりかけのプロジェクトがあります」
前田「そのプロジェクトの成功が、 株式上場の条件になるということは知ってるな」
井上「はい」
前田「社運を賭けたプロジェクトに、地位と金をふんだんに活用するといい」
井上「----」
堀江「ばかか、おまえは」
井上、うなだれている。
前田、やや鼻白んで、2本目の煙草を手にする。
堀江、ライターを差し出す。
前田、煙草をケースに戻して、
前田「今日はもういい」
前田、2人に退室を促す。
立ち上がる井上と堀江。
前田「井上君の室長が無いなら、君の重役も無いからな」
堀江「そんな」
堀江、足を縺れさせて、ソファに座り込む。
act4 ネオン街
酔客が行き交う名古屋市錦三通り。
その中に堀江と井上。
堀江「おまえは、ばかか」
先になる井上を、堀江が前に回り立ち塞がる。
堀江「何を考えてるんだ」
井上、歩道端に寄り、酔客を避ける。
堀江もついてくる。
堀江「おまえ、幾つだ、36だろ、36で室長っていったら出世だぜ。おまえ、感動とか、やってやろうとか、そういう気起こらないの」
井上「---」
堀江「嫌なやつだねェ、暗いやつだねェ。(がらっと調子が変わり)頼むよ、な、受けろよ室長」
井上「今日はもうーーー」
堀江「何が今日だよ」
井上「帰りましょ」
堀江「え、何言ってるの。帰さないよ。うんと言うまで帰さないよ」
井上「そんな」
堀江「そんなじゃないよ!」
堀江、怒ってくる。
堀江「お前、君なあ、君は帝国からの出向者だということにこだわってるのか?」
井上、堀江を見る。
堀江「間違えるな、君一人でやってると思うなよ。プロジェクトの発想は東洋、わが社だからな」
堀江、歩き始める。
後につく井上。
堀江、前を向いたまま、
堀江「帰りたければ帰れよ、帝国に」
井上「----」
堀江「馬鹿にするなよ」
井上「----」
堀江「社長が、君を室長にしようとする気持ち、じっくり考えてみろ」
堀江、怒って帰ってしまう。
一人残る井上。
酔客が井上にぶつかる。
酔客「ごめんよ」
井上、歩く。
act5 井上家居間
居間の電気が点き、井上が入ってくる。
井上、コタツ上のノートパソコンを開く。
物憂げに電源を入れ、ついでにコタツの電源も入れる。
着替えながら、メールを受信する。
「新規受信メールが5通あります」のディスプレィ文字。
開くと、送信者「井上裕美」で、
『今日も遅いの?身体に気をつけてね』
次メールは、送信者「山川豊」
『明日、朝一、sameplace』
井上、大きなため息をつき、コタツで仰向けになる。
両手を組み、頭の下に当て、目を閉じる。
act6 ゴルフ練習場
早朝で空いている。
2階で球を打つ井上と山川(53)。
山川「室長だってな、何故報告に来ない」
井上、驚いて山川を見る。
山川「総務の石井と営業の砂田の情報だ」
山川、1球打って、
山川「君の仲間だよ、未だ居るんだぞ」
山川、打つ。
山川「出社して、室長直ぐ受けろよ。吸収合併が成功したら、君は帝国の主任だ」
山川、打つ。
山川「それとな、今のスタッフはそのまま連れてくるんだ。その上で大幅に手を入れる」
井上「手を、手を入れるんですか?」
山川「大型化し、価格設定を20万引き上げる」
井上「そんな。小型化にずいぶん苦労しているんです」
山川、井上の傍に来て、アイアンで井上の靴をつつく。
山川「帝国から出すには付加価値が必要だ。それに東洋カラーを徹底的につぶすんだ」
呆然となる井上。
山川「青いことを考えるなよ。いいか、組合にも人を廻してあるんだ。計画は決行する。
永久の落伍者になりなくなければ手筈どおりやれ」
井上、山川がつつく靴を見ている。
山川「(諭すような口調になり)見たまえ、冬日影だ」
ネット上空に、冬の太陽。
山川の声「鈍い光の弱々しい冬の太陽だ。踏み台にして、輝かしい夏の光を手にするんだ」
冬の太陽を見つめる井上。
山川「夏の太陽は復社後の君のポストだ。妙な事を考えるなよ」
act7 東洋通信開発室
産業機械の製造現場。
活気ある広い場内。
作業服に着替えた井上が物憂げにやってくる。
工場の奥にガラスで仕切った実験室。
議論していたスタッフが窓越しに近づく井上を認め、ほっとした表情になる。
井上、入ってくる。
スタッフ「おはようございます」
井上「おはようございます」
スタッフが、早速井上を取り囲む。
井上、現場の活気ある雰囲気に入って行く。
act8 東洋通信社員食堂
井上以下のスタッフが昼食中。
実験室の熱気がそのまま継続している。
スタッフの冗談で笑いが上がる。
井上も溶け込んで明るく笑っている。
堀江が定食のお盆を片手にやってくる。
堀江「いいかい」
堀江、一応声をかけて井上の隣に座る。
スタッフA「室長、どうしたんですか」
堀江「何が」
スタッフB「いいことあったでしょ」
堀江「どうして」
スタッフB「顔見りゃわかりますよ」
堀江、井上を伺い見ながら、
堀江「いいことになるか、ならないか」
堀江と井上を見比べるスタッフたち。
act9 居酒屋「元禄」
井上が一人酒を飲んでいる。
胸ポケットの携帯電話が鳴る。
ディスプレィの「裕美」の文字を確かめて、
井上「俺」
裕美の声「どこに居るの」
井上「元禄だけど」
裕美の声「一人?」
井上「うん」
裕美の声「良かった。5分で行けるわ」
井上「来てるのか、名古屋に」
裕美の声「そう、栄。待っててね」
電話を胸ポケットに収め、顔がほころんでくる井上。
マスター「奥さん?」
井上「そう」
マスター、カウンターの中から熱燗の徳利を差し出す。
マスター「よかったね」
井上、苦笑。
井上、ゆっくり飲む。
相次いで2組の客が帰り、静かになる店内。
飲む井上。
マスターは裕美のための料理を作っている。
ガランガランと扉が開く音がして、裕美(36)が入ってくる。
マスター「いらっしゃい」
裕美「こんばんわ」
裕美、井上の隣に座る。
裕美「名古屋、寒いわね。風が冷たいわ」
井上「どうかした?」
マスター、裕美にビールを注ぐ。
裕美、ありがとう、と受け、井上に乾杯。
井上、お猪口で乾杯。
裕美「寒い夜はビールに限るわね」一気に半分飲んだところで、マスターがイクラとじを出してくる。
裕美、泡を吹き出して、
裕美「感激!」
井上「騒々しいなあ」
裕美、箸をつけて、
裕美「おいしい!」
井上「どうかしたのか?」
裕美「イクラとじ、食べに来たのよ」
うれしいマスター。
裕美、井上に熱燗を注ぎ、
裕美「返事、こないんだもの。心配になって」
井上「毎晩疲れてて」
裕美「返信、メール届いた、元気、だけでいいのに。元気でなかった?」
井上、裕美にビールを注ぐ。
井上「いつ帰る?」
裕美「着たばっかりなのに。明後日」
井上「明後日か」
裕美「ん?」
井上「あさって話すよ」
裕美「そう」
マスター、湯葉揚げを出す。
裕美「わあ」
井上、決心がついた表情になってくる。
act10 東洋通信社長室
並んでかしこまっている井上と堀江。
対面に前田。
長い沈黙。
井上は真っ直ぐ前田を見ている。
前田、煙草に自分で火を点ける。
紫煙をゆっくりと吐き出して、
前田「わかった」
井上「社長」
前田「よくわかった。井上君はこのまま主任でがんばってもらおう」
井上「このままで、いいんですか」
前田「よく話してくれたね」
井上「社長」
前田「いやね、篠塚常務が、帝国の動きを気にしていてね。忠告は受けていたんだ。
私がうかつだったよ」
井上「----」
前田「堀江君、君の昇格も当分お預けだ」
堀江「ここへ来る前に井上君と話しました。ここは、子飼いの私ががんばらないと」
井上「総務と営業に、それから組合にもーーーー」
前田、井上を制して、
前田「君はそこまで言うな。篠塚君に当たらせてある。心配するな」
井上「---」
前田「出向中の気遣い、大変だったろう。何年になる」
井上、前田の優しい問いかけに感激。
井上「5年です。でも気に病んだのは、半年くらいでした。それまではーーー嫌なことを押し殺しても済んでいました」
堀江「お前は、東洋の気風に合っていたよ。ここ半年、元気がなかったから心配してたんだ」
前田「部下をしっかり見ないと、とても株式上場後の役員はつとまらんぞ」
堀江「はい!」
井上「(堀江に)で、私は?」
堀江「帝国に辞表を出す。
その後でわが社から正式に「東洋通信技術開発室主任を命じる」旨の通知書を帝国に届ける。
これでいいですね、社長」
前田、満足げにうなずく。
前田「二人ともがんばってくれ。戦いだぞ」
堀江、井上「はい!」
act11 冬の太陽
冬の太陽が鈍く輝いている。
act12 井上家居間
冬の陽が差し込むガラスサッシを空ける井上。
深呼吸する。
裕美が、お茶のお盆を手にやってきて深呼吸。
井上「棒に振っちゃったよな」
井上、すがすがしい。
裕美「捨てる神有れば拾う神有り、よ」
井上「うまく拾われるかな」
裕美「過去は気にするなって、そう言われたんでしょ、社長さんに」
井上「うん」
裕美、井上にお茶を渡す。
裕美「あなた、帝国を裏切ったんじゃないわよ」
井上、お茶を取って裕美を見る。
裕美「だってそうじゃない。研究室を帝国の思うように改造しようというのでしょ。
馬鹿にしてるわよ」
井上「そうだね」
二人、お茶を飲む。
裕美、「ふふ」と微笑む。
井上「なに」
裕美、お茶を飲んで、
裕美「冬の太陽ってぽかぽかしてて暖ったかいわね。冬日影って言うんだって」
井上「冬日影か」
暖かく光る冬の太陽。
井上「ほのぼのしてて、ふるさとみたいだな」
寄り添って、冬日影を見る二人の姿に、